中部デザイン協会 デザインの仕事場におじゃまします

第11回 小山太郎氏

今回は小山太郎さんをご紹介します。
小山さんも出展されている「これで良いのかデザイン」展のサンゲツショウルームでお話をうかがいました。

インタービューア:小山さんは生け花の家元と聞いていますが、デザインへの関心はどのようにして・・。

小山さん:生け花の相阿弥流家元19世を継いでいます。生け花相阿弥流とは、始祖は相阿弥、名は真相、水墨画、連歌、茶の湯、生け花などにすぐれ、八代将軍足利義政公に仕えた同朋衆のひとりです。特に京都竜安寺の枯山水の作庭で知られています。同朋衆とは、将軍や大名に近侍し、種々の芸能や雑事を奉仕する人々で、阿弥号を持つ僧体の者です。足利将軍家の文化活動の中で大きな比重占め、唐物の鑑定や作庭、文芸や座敷飾り、生け花などに活動の場を持ち、室町文化に大きな役割を果たしました。
その血筋を受け継いでいることもあると思いますが、子供の頃から茶道、生け花、絵画いろいろな芸事の中で育ち、常に一番良いものを見なさいと教えられたことで芸術やデザインへの関心は自然と高くなっていきました。

インタービューア:青春時代は・・。

小山さん:私は大正6年に生れましたので、10~20代の青春時代がちょうど日本の中国進出、太平洋戦争の第2次世界大戦にあたり、昭和13年から8年間も軍隊生活でした。
その大切な8年間の空白を今、長生きして少しでも取り戻そうと思っています。中国の戦場では現在の愛知県立工業高等学校の図案科で学んだデッサン力が物をいい作戦地図を描いたり、マラリアで療養したときは医師から顕微鏡資料のスケッチを頼まれ博士号に貢献しました。

インタービューア:そうしますと、小山さんの芸術創作活動は戦後になって一気に爆発するわけですね。

小山さん:終戦帰国して、中日新聞の宣伝技術部に勤める傍ら、芸術に理解ある社長に恵まれ油絵に没頭しました。その頃、新制作協会の創立者である猪熊弦一郎さんと出会い、新制作展に油絵の出展を10年続けました。そこでは荻須高徳、小磯良平、三岸節子さんなどあるいは建築の丹下健三、吉村順三、谷口吉郎などとも交流が出来、大いに刺激を受けました。猪熊さんからは個性を大切にし自分の世界を創ることを教えられ、その時のアドバイスでバラのテーマは今も続けています。また洋画だけでなく日本画から建築スペースなど大変マルチな活動をされた猪熊さんに私は大きく影響を受けました。

インタービューア:中部デザイン協会入会のきっかけは・・。

小山さん:「愛知県工業設計家協会」発起人の斎藤信治、松本政雄さんに豊橋、伊勢博覧会の中日新聞のパピリオンの設計を依頼したのが縁で昭和29年「中部デザイン協会」に改称する時に誘われ入会しました。人との出会いは人生のいろいろな広がりのきっかけになりますね。

インタービューア:小山さんのデザイン活動の一つに「堀川の浄化、美化運動」がありますが。

小山さん:平成元年デザイン博のときに、海外から来られたデザイナーに名古屋市の中央を流れる堀川の汚れを指摘され、デザイン都市とはとても言えないと言われたことに大発奮しまして当時の西尾市長を動かし、大きな市民運動「クリーン堀川」に発展させました。

インタービューア:約10年経って小山さんの情熱の結果、堀川に魚が戻り、水鳥が舞い、沿岸に花が咲き、船が巡航するようになりました。素晴らしいデザイン活動の成果ですね。

小山さん:いや、まだまだ序の口です。工業都市から観光都市に変わりつつある名古屋の堀川をロンドンやパリのテムズ川、セーヌ川のような観光シンボルにしたい。そして堀川を油絵のモチーフにして描くことが私の夢です。


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